大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和62年(合わ)67号 判決 1987年12月18日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和六一年四月末頃から、いわゆる「ホテトル嬢」として売春をしていた者であるが、昭和六二年四月一五日午後六時頃、所属するホテトル事務所の経営者に指示されて、東京都豊島区東池袋△丁目△△番△△号所在の××ビル内株式会社××ホテルテアトル○階○○○号室に客のAを訪ね、同室内において、同人から四時間分の所定料金と交通費を受け取り、そして、同人との右契約の内容を前記ホテトル事務所に電話で報告したところ、その直後、Aは、右電話が終わるのを待つていたかのように、いきなり被告人のみぞおち付近を殴打し、被告人を同室内のベッド上に押し倒し、逃げようとする被告人を右ベッド上に押え付けながら、被告人に対し、「静かにしないと殺すぞ。」などと申し向けて脅迫し、持参していた刃体の長さ約八センチメートルの切出しナイフ(昭和六二年押第七三六号の1)で被告人の右手背親指付け根付近を軽く一回突き刺し、右ナイフをその顔面近くに突き付けるなどし、更に、被告人の両手首、両足首をそれぞれ浴衣の帯等で緊縛した上、同日午後六時三〇分頃から同七時五〇分頃までの間、同室内において、被告人に自己の陰茎や睾丸、肛門等を繰り返し舐めさせ、他方、被告人のブラウスの胸の辺りを両手で掴んで左右に引つ張り開け、前ボタンを引き千切るようにしてその肩や胸をはだけ、ブラジャーを引き下ろしてその乳房を弄び、又、ブラウスやスカート等を脱がせ、右ナイフでパンティーストッキングを切り裂きパンティーを引き下ろすなどして被告人をほぼ全裸の状態にした上、あられもない格好をさせてその陰部を殊更に露出させ、これを執拗に指で弄び、更にはそのパンティーを右ナイフで切り裂いて剥ぎ取り、被告人の右手と右膝、左手と左膝を浴衣の帯でそれぞれ縛り直し、予め用意していた電動性具を用いて執拗に被告人の陰部を弄ぶなどした上、その間、被告人に承諾を求めることもなく勝手に、これらの所為、姿態を、予め用意して設置していた八ミリビデオカメラや所携のポラロイドカメラ等で撮影し続けた。被告人は、このようにAにナイフを突き付けられて脅されるなどしたため、畏怖して同人の言うままなすがままにしていたが、同人の言動からその目的が猥褻行為とその場面を撮影することにあることを知り、おとなしくしていれば殴られたり殺されたりすることはないと一応安堵はしたものの、同人から前記のようなひどい仕打ちを受ける謂れはないと思い、何とか同室から逃げ出す方法はないものかとあれこれ考えてみたが、適当な手立てが見付からないまま、同人の電動性具による猥褻行為に身をまかせ、敢えて快感を覚えてきたかのように振舞いながら、取り敢えず、同人がベッド上に放置していた前記ナイフを同人の隙を見て密かに近くにあつた枕の下に隠しておいた。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六二年四月一五日午後七時五〇分頃、前記ホテルテアトル○階○○○号室において、前記のとおり八ミリビデオカメラで被告人の姿態等を撮影しながら電動性具を用いて被告人の陰部を執拗に弄ぶなどしていたA(当時二八歳)が、右性具で被告人の陰部を弄びながら、被告人に対し、「花子は男の公衆便所です。」「したくなつたらいつでも入れて下さい。」などと卑猥で屈辱的言辞を次々と口にするよう命じたため、Aに対し強い憤りを感じ、このように屈辱的なことまで言わされてはこれ以上堪え忍んで同人の言うままなすがままになつてはいられない、この上は、先刻枕の下に隠しておいた前記切出しナイフで同人の腹を刺して同人が蹲つた隙に同室から逃げ出そうと考え、右ナイフを密かに左手に握り、同人の隙を窺つていたところ、被告人のやや右後方に被告人と並ぶようにして座り、なおも前記電動性具を用いて被告人の陰部を弄ぼうとしていたAが、折柄、躰を右下方に捻るようにしながら視線を脇に移したため、その一瞬を捉え、矢庭にAの腹部をめがけて一回突き刺してそのまま同室出入口に向かつて逃げ出し、同出入口ドア前に至つたが、予期に反し、同人が素早く被告人の前に回り込んで来て立ち塞がつたため、被告人は、反転して同室奥に向かつて逃げたところ、Aが、被告人のあとを追い、逃げ回る被告人をその背後から、捕まえ、押え付け、又、その頭髪を掴んで額付近を壁に打ち付け、或いはその首に手を回して上体を起こすなどして被告人が手に持つていた右ナイフを取り上げようとしたため、ここで右ナイフを取り上げられ捕まつてしまえば、Aから右ナイフで傷付けられるなどの乱暴を受けるかも知れないと思い、そうであれば、同人から右ナイフを取り上げられる前に刺して逃げるしかないと考え、同人が死亡するに至るかも知れないことを認識しながら、敢えて、右ナイフで同人の胸部をめがけて数回に亘り突き刺すなどし、よつて、同人に対し、左肺下葉を損傷させる創洞の長さ約九センチメートルの前胸部刺創、第五肋骨を切断し、左肺上葉下部を損傷させる創洞の長さ約五センチメートルの前胸部刺創、第五肋骨に切込みをつくり心左室内腔に刺入する創洞の長さ約七センチメートルの前胸部刺創、肝臓を貫通し、胃小彎部壁等を損傷する創洞の深さ約9.6センチメートル及び創洞の長さ約一二センチメートルの各腹部刺創、肝臓及び胃に創をつくり胃腔内に至る創洞の長さ約一一センチメートルの腹部刺創等の傷害を負わせ、もつて、同人をして、同日午後九時二分頃、東京都板橋区加賀二丁目一一番地一号所在の帝京大学附属病院において、右の胸腹腔臓器刺創による失血により死亡させてこれを殺害したものであるが、被告人の以上の行為は、自己の身体及び自由に対する急迫不正の侵害に対し、自己の権利を防衛するためになしたもので、防衛の程度を超えたものである。

(証拠の標目)

一、被告人の当公判廷における供述

一、被告人の検察官(五通)及び司法警察員に対する各供述調書

一、B、C、D、Eの司法警察員に対する各供述調書

一、司法警察員作成の検視調書

一、東京都監察医上野正彦作成の死体検案調書(但し、「死亡前後の状況及び検案所見に対する考察」欄の記述部分を除く)

一、検察官作成の電話聴取書

一、司法警察員作成の写真撮影報告書三通

一、司法警察員作成の解剖立会報告書

一、医師鈴木裕子、同石山昱夫共同作成の鑑定書

一、医師鈴木裕子、同石山昱夫共同作成の「鑑定書補充説明」と題する書面

一、浦和市長作成の戸籍謄本

一、司法警察員作成の実況見分調書

一、司法警察員作成の検証調書

一、司法警察員作成の殺人被疑者治療状況報告書

一、司法警察員作成の差押調書

一、F作成の任意提出書

一、司法警察員作成の領置調書

一、司法警察員作成の昭和六二年四月一七日付、同月二五日付各鑑定嘱託書謄本(但し、いずれも「事件の概要」欄の記述部分を除く)

一、警視庁科学捜査研究所法医科副参事野々村眞一作成の鑑定書二通(袋捜第三六四号及び同第四〇〇号をもつてなされた各鑑定嘱託に対するもの)

一、司法警察員作成の三五ミリカラーフィルム現像・焼付捜査報告書

一、司法警察員作成の八ミリビデオテープ再生画面見分捜査報告書

一、警視庁技官島内啓吉作成の写真撮影報告書

一、押収してある切出しナイフ一本(昭和六二年押第七三六号の1)、ポラロイド写真一四枚(同押号の2)、電動性具一組(同押号の3)及び八ミリビデオテープ一巻(同押号の5)

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人の本件所為は、Aが被告人に対し暴行、傷害、脅迫、逮捕、監禁、強制猥褻等の犯罪行為を継続して加え、更にその生命にまで危害を加えようとしたため、自己の生命、身体を防衛するため已むを得ずしてなしたものであるから、正当防衛に該当する旨主張するので判断する。

一先ず、急迫不正の侵害の存否について検討するに、前掲関係各証拠によれば、Aは、判示のとおり、密室に近い状態にあるホテルの一室において、いきなり被告人に対し、凶器を用いるなどして暴行、脅迫及び傷害を加え、被告人を監禁状態に置いた上、被告人の意思を全く無視してビデオカメラ等でその模様を撮影しながら、執拗に猥褻行為等を行い、かつこれを継続しようとしていたことが認められるから、被告人が最初本件ナイフでAの腹部を突き刺した際のAの右行為が被告人の身体及び自由に対する急迫不正の侵害であることは明らかである。更に、被告人にいきなり腹部を刺されて憤激したAが、同室内から逃げ出そうとする被告人のあとを追い、素早くその前に回り込んで被告人が室外に出るのを阻止し、又、右ナイフを手にした被告人がAに捕まることをおそれて室内を逃げ回るや、被告人を執拗に追い回し、被告人から右ナイフを取り上げようとして、その背後から、被告人を捕まえ、押え付け、被告人の左こめかみ付近にみ付き、その頭髪を掴んで額付近を壁に打ち付け、或いはその首に手を回し上体を起こしてナイフを握つている被告人の手を掴んだりした行為は、被告人のAに対する前記刺突行為に直接原因してなされたものではあるが、被告人をなおも監禁状態に置こうとしてなしたものであり、かつAに右ナイフを取り上げられないよう専ら逃げ回つているに過ぎない被告人に対し向けられたものである上、被告人が、ここでAに捕まり右ナイフを取り上げられれば、同人のそれまでの言動や被告人に刺された後の憤激の程度等に照らすと、同人から右ナイフを用いて傷付けられる危険性があること等に鑑みれば、Aのこれらの行為も被告人の身体及び自由に対する急迫不正の侵害であることが明らかであると言うべきである。

なお、検察官は、被告人の性的自由及び身体の自由は、そもそも、被告人がAとの間で売春契約を締結していること及び同人の変態的猥褻行為に対しても黙示の承諾を与えたことで放棄されており、又、被告人がAに対し、最初に本件ナイフで刺突行為に出た際には、被告人は、既に手足の緊縛を解かれ、かつ右ナイフを自己の支配下に置いていたのであるから身体に対する侵害も全く存在しなかつた旨主張するが、しかし、前記のとおり、Aは、被告人に対し、凶器を用いるなどして暴行、脅迫及び傷害を加えた上、猥褻行為等に及んだものであるばかりでなく、その行為内容も通常の性交及びこれに附随する性的行為の範囲を著しく逸脱したものであり、しかも、Aは、その状況を、被告人に断わりもなく、八ミリビデオカメラ等で撮影する等していたものであつて、たとえ被告人がAと売春することを合意していたとしても、被告人において、その意思に反してかかる行為までも甘受しなければならない謂れはないものと言うべく、そして、このことは、Aが未だビデオカメラも設置していない段階で、売春契約を結んだ直後に、いきなり被告人に対し、判示のような暴行、脅迫及び傷害を加えていること自体、A自身が、これから敢行しようとした判示のような猥褻行為等が右契約に含まれておらず、このままでは被告人から拒否されるであろうことを知つていたことを示して余りあると言うべきであり、又、被告人がAに対し、従順な態度、対応を示し、或いは迎合的とも思える態度を取つたのは、当初、いきなりAから凶器を用いるなどして暴行、脅迫及び傷害を加えられて畏怖した結果によるものであり、又、そのような態度を仮装することによつてAに所期の目的を達したものと思わせ、少しでも早く同人から解放されたいとの思いからであつたと認めるのが相当であるから、被告人がAの判示のような猥褻行為を黙示にしろ容認したものとは到底言い難く、検察官の右主張は直ちに採用することができない。

二次に、防衛の意思の有無について検討するに、前掲関係各証拠によれば、被告人が最初本件ナイフでAの腹部を刺突したのは、その意思に反して同人から執拗に猥褻行為を受けていた被告人が、更にAから、回り続けているビデオカメラの前で、卑猥で屈辱的な言辞を次々に口にするよう命じられたため、これに痛く憤慨したからであることも認められるが、他方、被告人の右刺突行為は、これによりAによる監禁状態を一時排除してその隙に部屋から脱出してその執拗な猥褻行為等から逃がれようと意図してなしたものであることが認められ、又、その後、被告人が本件ナイフでAの胸部等を刺突したのも、Aが被告人の頭髪を掴み額付近を壁に打ち付け、或いはその首に手を回して上体を起こすなどして、被告人が手に持つていた右ナイフを取り上げようとしてきたため、ここでAに右ナイフを取り上げられ、捕まつてしまえば、同人から右ナイフで傷付けられるなどの乱暴を受けるかも知れないと思い、そうであれば、同人に右ナイフを取り上げられる前に刺して逃げるしかないと考えてなしたものであることが認められるから、被告人は、Aのこれらの侵害行為に対しいずれも防衛の意思をもつて判示刺突行為に及んだものと認めるのが相当である。

三そこで、更に、被告人の判示防衛行為が已むことを得ざるに出た行為であるかどうかにつき検討するに、前掲関係各証拠によると、Aは、判示のとおり、当初は本件ナイフを用いて被告人に対し暴行、脅迫及び傷害を加えたりしているものの、被告人が明示の抵抗を止めてからは、猥褻行為とその場面をビデオカメラ等で撮影すること等に熱中し、それ以上には特に被告人の身体に危害を加える素振りを示していないばかりか、逆に被告人の右手背の傷の手当てまでしたり、又、右ナイフもベッド上に放置し、そのうち、その存在すら失念してしまつていること等に徴すれば、Aは、初めから専ら猥褻行為とその場面を撮影することを目的としていたものであつて、前記のように被告人に対し傷害等の行為に及んだのも右目的を成し遂げるために被告人の抵抗を排除して置こうとしてなしたものと認められ、同人に被告人の生命まで奪う意図があつたと認めることはできない。Aの右目的、意図及び行動の経緯・態様、そして、被告人がAの腹部を突き刺す直前には被告人が右ナイフを自己の支配下に置いていたこと、更に当の被告人自身、この段階で、自己の生命に対する危険を感じてはいなかつたこと等を併せ考えると、この段階では、被告人の生命に対する急迫の侵害が存在したとは考え難く、ただ被告人の身体及び自由に対する急迫の侵害が認められるに過ぎないと言うべきである。更に、前掲関係各証拠によれば、Aは、被告人から本件ナイフでその腹部を突き刺された後、被告人に対し、前記一記載のとおりの攻撃を加えていることが認められるが、その間も、被告人は常に右ナイフを支配していて一度もこれがAの手に渡つていないこと、Aは、被告人に対し、あくまで素手で右攻撃を加えていること、そして、Aの右攻撃の態様を見ても、被告人に対し、「てめえ、この野郎。」などと怒声を発しながら、被告人を執拗に追い回してはいるものの、右攻撃のうち頭髪を掴んでその額付近を壁に打ち付けた行為ですらそれほど力強いものではなかつたこと、そして、Aは、被告人に対し、本件ナイフを取り上げようとして前記一記載の攻撃を加えてきた以外には特に強暴な暴行は加えておらず、被告人も当公判廷において、「Aはナイフを奪おうとしてきたが、それ以外に私に何かをしたという感じはなかつた。」旨供述していること、Aに被告人の生命を奪い、或いはその身体に重大な危害を加える意思があつたのならば、被告人は、専ら逃げ回つていたとはいえ本件ナイフを手にしていたのであるから、敢えて、危険を犯してまで、あくまでも、被告人に素手で立ち向かつて行く必要はなく、室内にあつたカメラの三脚やテーブル、椅子等を手にして攻撃を加えれば、その目的を達することも十分可能であるのに、何らそのようなことをしていないこと等を併せ考えると、Aが、被告人に対し、前記一記載の攻撃を加えてきたのは、被告人から本件ナイフを取り上げることに主たる目的があつたと見るのが相当であり、そして、もしAが被告人から右ナイフを取り上げれば、それまでの経緯から被告人に対しある程度の傷害を与える危険性があることはこれを否定できないが、それ以上に被告人に対し、その生命或いは身体に重大な危害を加える危険性があつたものとは到底認め難いと言うべきである。被告人は、捜査、公判を通じて「Aにナイフを奪われたら殺されると思つた。」旨供述しているが、他面、前記のように、当公判廷において「Aはナイフを奪おうとしてきたが、それ以外に私に何かをしたという感じはなかつた。」とも述べており、これに前述したようなAの攻撃の内容・態様等を併せ考慮すると、被告人の「Aにナイフを奪われたら殺されると思つた。」旨の右供述はにわかにこれを措信することができない。以上のとおりであるところ、被告人は、未必的とはいえ殺意をもつて、Aの胸部を本件ナイフで数回に亘つて突き刺すなどし、同人に心臓等を損傷する判示刺創を負わせ、これにより同人の生命を奪つたものであり、その態様、結果の重大性等に鑑みれば、被告人の判示行為は、社会通念上防衛行為として許される必要かつ相当の範囲を超えたものと言わざるを得ない。

四以上の次第であるから、被告人の本件所為は、Aによる自己の身体及び自由に対する急迫不正の侵害に対し、自己の権利を防衛するためになしたものであるが、防衛の程度を超えたものであると認めるのが相当である。弁護人の正当防衛の主張はこれを採用することができない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入することとする。

(量刑の事情)

本件は、いわゆるホテトル嬢として売春をしていた被告人が、客である被害者に、ホテルの一室で、切出しナイフを用いるなどして暴行、脅迫及び傷害を加えられた上、ビデオカメラ等でその姿態を撮影されながら、執拗に猥褻行為等の相手を強いられたため、遂にこれに堪えかね、腹立ちも加わつて、密かに手許に確保していた右ナイフで同人の腹部を力一杯突き刺して部屋から逃げ出そうとしたが、同人にこれを阻止されたばかりか、執拗に室内を追い回され、捕まつては、その頭髪を掴まれて額付近を壁に打ち付けられ、又、捕まつては、その首に手を回して上体を起こさせるなどして右ナイフを取り上げられようとしたため、同人に右ナイフを取り上げられれば、これで傷付けられるなどの乱暴を受けるかも知れないと思い、そうであれば、右ナイフを取り上げられる前に刺して逃げようと考え、自己の身体及び自由を防衛するため、未必の殺意をもつて、防衛の程度を超え、同人の胸部等身体の枢要部を右ナイフで数回に亘つて突き刺しこれを殺害したという事犯であつて、本件は、被害者の常軌を逸した行為がその大きな原因になつていることは否定できないが、そもそも被告人が売春のため本件ホテルに赴いたことにもその原因がないわけではなく、特に、いわゆるホテトル嬢として見知らぬ男性の待つホテルの一室に単身赴く以上、客の性格等によつては相当な危険が伴うことは十分予測し得るところであるにもかかわらず、敢えて、被害者の求めに応じてホテルに赴いたという意味では、いわば自ら招いた危難と言えなくもなく、本件に至る経緯においても被告人に責められるべき点がないとは言えない上、犯行の態様も、最初の刺突行為について言えば、被告人において、いかに、当初、被害者から暴行、脅迫及び傷害を加えられたとはいえ、長い時間の経過の中で、一度も、被害者を説得するなどして猥褻行為を止めさせようとはせず、かえつて、後半は、被害者に対し、表面的にせよ、その猥褻行為を受け入れるかのような態度を示し、そして、本件ナイフを確保したあとも、被害者に右ナイフを突き付けるなどして逃げ出す等他に方法がなかつたわけではないのに、いきなり刃体の長さ約八センチメートルの切つ先鋭利な切出しナイフで身体の枢要部である相手の腹部を力一杯突き刺すなどしたもので、短絡的で極めて危険なものであり、又、その後の刺突行為も、これ又、身体の枢要部である胸部をめがけて数回に亘り力一杯突き刺すなどしたものであつて、たとえ、それが被害者の急迫不正の侵害から逃れようとしてなしたものであつても、同人を殺害するまでの必要があつたとは到底言い難いことなどに鑑みると、これも悪質という外はなく、そして、その結果も右の刺突行為により未だ二八歳の被害者の生命を奪つたものであつて重大であり、突然夫を失つた妻を始めとする被害者の遺族が受けた精神的衝撃も極めて大きいものがあつたと思料されるところ、被告人は遺族に対して何らの慰謝の措置も講じていないこと等を併せ考えると、犯情はよくなく、被告人の刑事責任は重いと言うべきである。しかしながら、本件は、被害者の常軌を逸した行為に起因するものであり、被害者に大きな落度があること、そして、被告人の本件行為は過剰とはいえ防衛のためになされたものであること、被告人は、現在、本件について深く反省悔悟し、更生を誓つていること、被告人にはこれまで禁錮以上の刑に処せられた前科がないこと、その他被告人の年令等被告人のために酌むべき事情があるので、これらを総合考慮し、主文掲記の刑を量定した次第である。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官生島三則 裁判官北秀昭 裁判官稗田雅洋)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例